心臓が枯れるまで
確か蜃気楼って砂漠を彷徨い歩いて、死にかけた時に見るものだったかしらふふ、自分でも笑っちゃう死にかけは走馬灯ねお盆の時期に見た綺麗な提灯が切なくて小さい頃に泣いてしまった人の一生は長いあまりにも長いのだでもそれが良い美しい結晶であり集大成だその美しさと儚さに目を奪われるなぜこれほど惹かれて憧れてしまうのか1人1人に色濃く映し出すあまりの情報量と輝きが目映く圧倒されてしまうどうか教えて欲しいその輝きと胸に迫る情動と積み上げてきた人だけが持つ眩いばかりの美しさをつぶさに教えて欲しいその煌めきを胸に閉まってああ知れて幸せだったと思いたい足るを知るとは言うが飽くなき好奇心と探究心が私を満たしてくれるようにまだ見ぬ世界をのぞけるように貴方の尊い一面を見せて少しでも愛の欠片を見てみたいの次回木曜日出勤します10:00〜16:00ご用命をお待ちしてますiPhoneから送信
日本侵攻した際、
高麗を従属させて挙兵、威力偵察させたとも
言われる文永の役
900艘、3万の挙兵だが
異国や高麗と蒙古が混じり合い
統率も取れず苦慮していた
蒙古、高麗軍の
対馬と壱岐を蹂躙し尽くした惨状は
むくり(蒙古)こくり(高麗)が来るよと
小さい頃から後々の世まで言い聞かせるほど
残虐な行為だったようだ
無慈悲で残酷な状況を「むごい」と言うが
この語源も蒙古兵にあると言われる
(男は皆殺しにして、女は手のひらに
穴を開けて紐で通して船の縁に並ばせ、
矢避けの肉壁にした逸話が残っている)
鎌倉武士は惨状を知ると
筥崎宮や赤坂山に陣取り
総大将の少弐景資(しょうにかげすけ)
薩摩、日向、豊後、肥後など
九州各地からの援軍も守りについた
一方で蒙古軍・高麗軍は博多の西側に
本陣を置いた
また主力2万が壱岐の浜に上陸
戦いは激しくなり、櫛田神社や筥崎宮に
火が放たれ、博多の町は炎に包まれた
鎌倉武士は苦戦を強いられながらも
粘り強く応戦し、
少弐景資が放った矢によって
元の副将、劉 復亨(りゅう ふくこう)が
負傷した(これが元軍退却の一因となった)
翌21日、元軍の姿は無かった
日没からの撤退であっけなく終わった
元軍一行の運も尽きていた
退却中の蒙古、高麗軍らは
博多湾を出た直後に暴風雨が起こり、
軍船の半分が沈没、多くの将兵が溺死した
歴史は楽しいですねえ
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