悲惨極まりない沖縄戦
皆様 こんにちはお仕事お疲れ様ですm(_ _)m今週も始まりましたね仕事はじめの月曜日から良い天気でなによりです!今週もお仕事頑張ってね昨日は「沖縄戦」終結から79年でした。*沖縄戦概要*太平洋戦争末期に県民を巻き込んだ地上戦が行われました。開戦以来、進撃を続けていた日本軍は、昭和17年6月にミッドウェー海戦での敗北を境に徐々に後退することとなり、南太平洋上の数々の島嶼にあった基地も奪われることとなりました。このため日本軍は、本土防衛の最後の拠点を沖縄とし、昭和19年3月に南西諸島に沖縄防衛のため、第32軍を創設しました。一方米軍は、本土攻撃の拠点を硫黄島・沖縄と定め、昭和19年10月には沖縄攻略を正式に決め(アイスバーグ作戦)、同年10月10日、まず沖縄本島に大規模な空襲を行ないました。昭和20年3月17日には硫黄島にあった日本軍守備隊が玉砕し、これにより米軍は、太平洋地区にあった全軍の戦力を沖縄攻略に向けて結集することにしました。3月26日慶良間列島に上陸した米軍は、4月1日に1,500隻近い艦船と延べ約54万人の兵員をもって沖縄本島に上陸を開始しました。ここから約 3~5ヶ月にわたる沖縄戦が始まりました。この沖縄での戦闘は、6月23日未明に第32軍の牛島司令官と長参謀長が自決したことにより、組織的戦闘は同日に終結したとされていますが、その後も沖縄本島以外の各島や本島内でも局地的には引き続き戦闘が行なわれており、南西諸島守備軍代表が降伏文書に調印したのは、9月7日のことです。この約3~5ヶ月の間の戦闘で亡くなった日本兵及び一般住民の方々は、一般住民約10万人を含め約20数万人といわれています。(内閣府ホームページより)色々とテレビの報道や、資料などで沖縄戦を知りましたが、果たしてこの戦争に意味があったのか、私は未だに疑問でしかありません。日本国を守る精神は凄い事だと思いますが、そもそも「欲」から始まった戦争に一般市民を犠牲にし、人道を無視した悲惨な地獄を味わせ何がお国のため?読めば読む程、知れば知る程怒りと犠牲になられた方々の無念さに心をえぐられる様な気持ちになります。沖縄に建てられた平和の礎には犠牲になられた方々の名前が24万2225名刻まれています。平和の礎には「全ての人々に追悼の意を表紙し、御霊を慰めると共に、今日、平和の享受出来る幸せと平和の尊さを再確認し、世界の恒久平和を祈願する」理念があります。昨日の追悼式で岸田首相は「戦争の惨禍を二度と繰り返さない決意の下、誰もが心豊かに暮らせる世の中を実現する」と誓いをたてられてましたが、その誓いを日本国として必ず実現しなければならないと私は強く想います。戦争で犠牲になられた方々に深く追悼の意を表し、冥福をお祈り致します。
朝6時半 起床
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ベッドと枕が良すぎて久しぶりにグッスリ眠れました!
まぶたが重い状態で朝風呂へ。
朝から温泉入って贅沢してるな〜と
湯に浸かりながら幸せに浸ってました。
8時に朝ごはんを頂きに食堂へ行くと
エレベーター降りた瞬間から良い匂いがし、食欲がROCK ON!!
ビュッフェスタイルの朝食で、どれも手がこんでる料理にテンション爆アゲ!!
どれもこれも美味しいヾ(o´▽`o)ノ
特に見た目はイマイチだけど、
茶粥が最高!!お茶の香りとさっぱりした味付けが朝の胃袋に優しくて美味しかった〜
お腹も満たされ、9時チェックアウト。
御宿 野乃はサービスもお風呂もベッド、食事と全てが大満足なホテルでした。
私の中では星5つ!!また絶対に来よう!
全国にあるので、旅行の際は是非宿泊してみて下さい。オススメです!
ホテルを出て薬師寺へ
この日は朝から雨でしたが、
また雰囲気あって良い感じ!
*金堂*
昔の書物に基づいて昭和51年(1976年)につくられました。堂内には白鳳期の様式をもつ、本尊の国宝薬師三尊像が安置されています。中心の薬師如来坐像は、ギリシャ、ペルシャ、インド、中国の文様を刻んだ台座のうえに、威厳に満ちた表情、堂々とした姿で座り、左右の日光・月光菩薩立像は、腰をややひねるしなやかさをもち、三尊で静と動、厳格とやさしさがみごとに調和しています。
*東塔*
東塔は、天平2年(730年・奈良時代前期)に建てられたといわれる、薬師寺で唯一現存する奈良時代の建物。一見すると六重に見えますが三重塔で、各階に裳階をつけ、大小の屋根のリズム感をつくっています。また天に伸びる約10メートルの相輪部は、全体の高さの3分の1の大きさがあり、その先の水煙部には、24体の飛天が透かしぼりされています。
*西塔*
西塔は、享禄元年(1528年・室町時代後期)に焼失し、昭和56年に再建されたものです。
薬師寺は、藤原京に天武天皇9年(680年)天武天皇が皇后(持統天皇)の病気回復を願って建てられ、天武天皇の死後、その遺志をついで持統天皇が持統天皇10年(697年)に完成させました。
平城京遷都にともない、養老2年(718年・奈良時代初期)にいまの地に移され、当時は南大門を入ると、左右に東塔、西塔がそびえ、正面に金堂、その後ろに講堂があり、それらを回廊で囲んだ薬師寺式伽藍配置をもつ大寺でした。その後、火災や兵火などで、ほとんどの堂塔が焼失。
いまでは東塔のみが奈良時代の建物です。
しかし、伽藍の復興が進められ、昭和51年(1976年)には金堂、昭和56年(1981年)には西塔など次々と建てられ奈良時代当時の姿にもどりつつあります。
周りに高い建物がないので、新旧2つの塔と金堂が、西ノ京の空に高々とそびえ、華やかな白鳳様式をいまにみることができます。
*大講堂*(写真薬師寺資料より)
大講堂は正面41メートル、奥行20メートル、高さは約17メートルあり伽藍最大の建造物です。大講堂が金堂より大きいのは古代伽藍の通則で、これは南都仏教が教学を重んじ講堂に大勢の学僧が参集して経典を講讃したためです。薬師寺白鳳伽藍は、天武・持統二代の天皇の夫婦愛が、それぞれ金堂と大講堂にこめられているのです。大講堂は現在の建築基準法に合わせ現代の技法を取り入れた伝統工法による復元建築で、最大級の建物です。薬師寺白鳳伽藍の雄大さを象徴しています。また、天平勝宝5年(753年)に刻まれたことがわかる日本最古の国宝仏足石と、その徳と生死を歌った21首(1首は38文字)の国宝仏足跡歌碑もあります。
鐘楼周辺に鉢植えの蓮がずらりと並び、大講堂など壮麗な歴史的建造物と、蓮の花のコントラストが見どころです!
(続く)