遺伝
働き者の母と同じようになってきた目の前がチカチカしてゆらゆら揺れるから立てない動かず丸まっていれば時間とともに治る耳元に流れる脈動手足は勝手にガクガク震え動く立ち上がる度階段を上り下りする度血が集まらなくて苦しくなる息苦しくて心臓が痛いそのうち指先が第二関節から真っ白になるのだろうか今年に入って親戚が3人亡くなった毎日が永遠に続くように感じていた幼い頃とは違い死は身近に音もなく側にある人は死を前にした時死にたくないと言うようだアインシュタインもそう言って、あまりに平凡な言葉の為にドイツ語で何か言ったが看護婦が分からなかった等の諸説がまことしやかに囁かれている私の祖父は酸素マスク越しに自らを殴り殺せと言った3度出兵したからか苦しみに強いのだろうかそんな周りを困らせた祖父だが、亡くなる2日前に成人式の着物を見せに行った時は、家族が誰一人として見たことない祖父のピース姿で一緒に写真を撮った母がなけなしのお金で借りた振袖だった月曜日出勤します10:00〜16:00ご用命をお待ちしてますiPhoneから送信
日本侵攻した際、
高麗を従属させて挙兵、威力偵察させたとも
言われる文永の役
900艘、3万の挙兵だが
異国や高麗と蒙古が混じり合い
統率も取れず苦慮していた
蒙古、高麗軍の
対馬と壱岐を蹂躙し尽くした惨状は
むくり(蒙古)こくり(高麗)が来るよと
小さい頃から後々の世まで言い聞かせるほど
残虐な行為だったようだ
無慈悲で残酷な状況を「むごい」と言うが
この語源も蒙古兵にあると言われる
(男は皆殺しにして、女は手のひらに
穴を開けて紐で通して船の縁に並ばせ、
矢避けの肉壁にした逸話が残っている)
鎌倉武士は惨状を知ると
筥崎宮や赤坂山に陣取り
総大将の少弐景資(しょうにかげすけ)
薩摩、日向、豊後、肥後など
九州各地からの援軍も守りについた
一方で蒙古軍・高麗軍は博多の西側に
本陣を置いた
また主力2万が壱岐の浜に上陸
戦いは激しくなり、櫛田神社や筥崎宮に
火が放たれ、博多の町は炎に包まれた
鎌倉武士は苦戦を強いられながらも
粘り強く応戦し、
少弐景資が放った矢によって
元の副将、劉 復亨(りゅう ふくこう)が
負傷した(これが元軍退却の一因となった)
翌21日、元軍の姿は無かった
日没からの撤退であっけなく終わった
元軍一行の運も尽きていた
退却中の蒙古、高麗軍らは
博多湾を出た直後に暴風雨が起こり、
軍船の半分が沈没、多くの将兵が溺死した
歴史は楽しいですねえ
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