…気づいちゃった
元気な学生時代から目まぐるしく働く社会人そしてパート、アルバイトを経て。中堅世代を担うにあたり、いずれ誰かが通る道。それが痔。ええ今朝からの違和感の正体、頻発する鈍痛、発熱感、脈打つような生命の息吹をケツ穴に感じております。さながら「物が挟まった異物感」とでも申しましょうか…私の菊の御紋が大惨事でございます。気づいてはいけなかった…痛みというのは、見た瞬間から意識して痛みが増してしまうもの。他人の血を見て貧血になる様なもので勘づいても、確認すべきでは無かった…あぁぁぁあああ、痛い。これを痛いと言わずに何を痛むと言うのか可哀想な中堅層の菊の御紋…もとい悲壮感を漂わせる脈動。落涙。想像してみて下さい可愛い子猫が足元に戯れて、ふと手を差し出した瞬間、子猫のケツに何かが付いていたと気づいた躊躇いを。ケツに付いた何かに気づかなければ、子猫は可愛いのです。だがしかし、気づいてしまった…そう、気づいてしまったのです。気づいたら、ケツに付いた何かから目が離せなくなるもの。差し出した手を引っ込めるか躊躇う程に。気づいてしまうというのは、時に罪、なんですね…なんて真顔でスマホに打ち込んでいますがケツ穴が痛いです。合掌。iPhoneから送信
「いもうと」の短編のように。
「シンデレラ迷宮」の主人公のように。
あるいは
鶴見済の「完全自殺マニュアル」や、
ヘルマンヘッセの「車輪の下」、
江國香織の「ウエハースの椅子」のように
人は希死念慮のしじまに立ち、
気づけば柔らかな砂に足を包まれて
くるぶしを濡らす程度だった波は
ひたひたと温かく膝下までやってくる。
心を弱くした人は
そこで立ち止まる誘惑にあがらえない
温かく柔らかな砂に埋まっていく感触、
寄せては返す波の心地よさ。
ただ感じることに。
死は常に、痛みからの脱却であり
苦しみからの解放、
全ての生に等しく与えられた
最後の救いなのだ
小さい頃はそう思っていた。
無邪気に、あるいは真っ直ぐに。
芥川龍之介のぼんやりとしたもの、
太宰治の求めた救い、
宮沢賢治の信じたもの、
石川啄木の見た一握の砂、
それらに耽りながら、
ただひたすらに救いを待ち侘びていた。
iPhoneから送信